2015年12月11日金曜日

『釜ヶ崎、土門と青龍、撮り方、生き方』 アーカイブ 再録

アーカイブ 再録

映像と文化通信『釜ヶ崎、土門と青龍、撮り方、生き方』ケイ・イシカワ

2008-07-17 07:46:55 | アート・写真
1961年真夏の最初の暴動の前(数年)と、暴動の渦中、その後とすべてをきちんと撮った写真家は井上青龍だけであった。
 日本は朝鮮半島の“北”の“南“への侵略戦争である、いわゆる朝鮮動乱の休戦後の不況期を経験する。
中東の大油田が発見されて、エネルギー政策を石炭から石油と切り替えて、桁違いに安価な石油を使って高度成長して行くちょうどその転形期の釜ヶ崎を撮影した井上青龍。その業績への評価はますます高くなってきている。
 井上青龍はガラスの心臓の持ち主で感受性が優れていた。虐げられた人々、底辺の人々への感情投入は普通ではなかった。1988年夏に不慮の事故(水死)で亡くなるまで、大阪芸大の教授に昇進しても変わらないもの、それが釜ヶ崎の人々を撮りつづける意志・義務感(いわば十字架の重荷)であった。“釜ヶ崎”(愛隣地区)にいつでもとまれるところを持っていた。
 
 土門に託された釜ヶ崎という十字架を死ぬまで背負い続けた律儀な井上青龍。師の岩宮武二がいうように、無器用で時代の変化についていけなかったのである。

 また時代の流れについて行くには釜ヶ崎という十字架は背にずっしりと重くのしかかり、身軽になれなかった。ガラスの心臓を持ったナイーブな心情と純粋な心の持ち主である青龍。
 井上青龍は恋する人でもあり、奥さんに恋を隠せなかったという。青龍は別の見方をすれば女性が放っておかないハンサムな写真家であった。“十字架を背負った写真家“、青龍。奥さんはずいぶん苦しんだことだろう。井上青龍は競馬ほかいろんな賭博に手を出してお金をつぎ込んだそうである。パチンコにも凝ったそうである。筆者は当時の無頼派的男性は多くは酒、女性、賭博に眼が無いのをよく聞いて来た。それが覇気ある男。しかし「釜ヶ崎」の住民は酒と賭博が主で“女“はないというのが相場だが、写真家は一般に“もてる”が故に女性関係は少なくない。離婚率の高い職業と世界的に定評がある。井上青龍は恋をした女性たちと深く真剣に付き合い、いわゆる“浮気”はしないというタイプ。それだけに家族(奥さんと子供達)は一層苦しんだそうだ。
 “スマートな“ 男なら奥さんにわからぬように浮気する。そういう意味でも井上青龍は不器用だったともいえる。青龍の場合は色好みの浮気はできなかったと思う。
 筆者と付き合いがあった晩年は賭博とか女性とかの噂は聞いていない。すべてずいぶん後になって遺族である、未亡人から聞いた話である。また最近発行された、未亡人の著書『海に抱かれたい』で知ったことである。
 井上青龍は筆者とは彼の弟子たちとともにお酒を楽しむというそいう付き合いが結構あった。学生を深く愛するさわやかな写真家という印象であった。
当時は土門から託された釜ヶ崎という重い十字架を背負った写真家という感じでの付き合いでなかった。大阪芸大で写真ジャーナリズムを担当する教授として井上青龍と付き合い、彼が愛した弟子たち、特に韓国人留学生たちと筆者も真剣に向き合うことになる。

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