2011年8月19日金曜日

佐藤亮一氏は面白い方だ! すい すし 酸っぱい

すし これは酸っぱいという意味の形容詞だった。

やさしい(現代語) やさし(古語)

すい(現代 関西弁) すし (古語)  

すしは、要するに酸っぱいという形容詞が名詞化したものだという。

ラジオ深夜便では形容詞が名詞になった例を教えてくださった。

佐藤亮一氏は面白い方だ!

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▽くらしの中のことば                   
              国立国語研究所名誉所員…佐藤亮一

2011年8月13日土曜日

『三木淳・デービッド・ダグラス・ダンカン・ピカソ夫妻』

三木淳の訃報はまず奥さんが海外に居るデービッド・ダグラス・ダンカンに知らせた。デービッド・ダグラス・ダンカンはすぐ、筆者が勤めていた写真通信社に知らせてきた。  それで筆者も早く三木淳の逝去を知った。

 大手のA紙の記者にそれを伝えると、写真部の彼はそれをまだ知らなかった。訃報は特ダネでもあるのだ。ハースがNYで亡くなったとき、彼はA紙に報道した。  

 三木淳が日本のカメラ工業の恩人になったきっかけはデービッド・ダグラス・ダンカンが朝鮮戦争の取材にニコンのレンズをつけたカメラを持っていったことからだと前に述べた。  

 筆者が勤めていた写真通信社ではデービッド・ダグラス・ダンカンの写真展『ピカソとジャクリーヌ』を開催、氏とは親しくなっていた。

 デービッド・ダグラス・ダンカンはなかなかの好男子・快男子でピカソとジャクリーヌに愛されていた。 ロバート・キャパ亡き後、パブロ・ピカソ夫妻にこよなく愛されたダンカン、それだけに夫妻の私生活、2人の愛の生活を充分捉えていた。 

 東京で開催された『ピカソとジャクリーヌ』デービッド・ダグラス・ダンカン写真展のオープニングで筆者はデービッド・ダグラス・ダンカンに会った。  

 ジャクリーヌはピカソをあまりに深く愛していた。

 しかし死後、孤独からダンカンを想う気持ちもあったと相違される。

 ピカソの前夫人の子供達との”いざこざ”(筆者の想像)とかダンカンへの想い、複雑な感情がからみあっただろう。 

 ジャクリーヌはしかしあまりにもパブロ・ピカソを尊敬し、愛していた。
http://www.blogger.com/img/blank.gif
 パブロ・ピカソが亡き後の孤独感、複雑な感情、全てをすっきりと清算したかったのではないかというのが筆者の想像である。 孤独感を逃れようとの自殺。ダンカンは悔いたそうだ。

余談だが、キャパやダンカンほか有名な写真家と交流のあったピカソ。カメラもすきで、撮られるのもきらいではなかった。

 写真も結構数多く遺している。

  (文中敬称略、失礼の段、お許し下さい。)
2008年08月04日 07時50分56秒 | 写真・映像・アート
 記事は過去のものの転載・再録です。

2011年8月12日金曜日

66回目の終戦記念日と非戦の誓い

66回目の終戦記念日と非戦の誓い

1945年8月15日日本本土 台湾 朝鮮半島 旧占領地 多くの人が天を仰いで太陽を見たろう。

 写真家の濱谷浩は63年前の終戦の日、空を見上げて太陽を撮った。


66年前の太陽と変わらぬように思えるが、温暖化した地表から撮る太陽はやはり少し違うようだ。

筆者の父は66年前、姫路の連隊で終戦を迎えた。

 敗戦が決まった直後、筆者の父はとびあっがて喜んだそうだ。それを見た将校が抜刀し、貴様っ!と言って切りかかろうとしたいう。父も銃剣で応戦しようと身構えた。それを見た将校は終戦のショックで気力が衰えていたのか、果し合いを続けなかたっという。

 父は軍隊や戦争の思い出を筆者によく話してくれたし、ワープロで書き残し(フロッピーに)もしている。師団で銃剣術の腕前が三位だった自慢する父だからできた行為だろう。

 日本の平和憲法は軍備増強派も結局、憲法9条を拡大解釈して参戦。しかし、今尚、建前は非戦闘地域に限られているのは心強い。

 昭和天皇の魂が込められている憲法九条を死守すること、それは平和への誓いを行動へ移す意欲から生まれる。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=c6cc104ba11a0a72214c0f2d22cca7a2
 63回目の終戦記念日と非戦の誓い
映像と文化通信・自由ジャーナリスト・ネット ケイ・イシカワ 経済・社会・放送雑感写真や映像、音文化、Webなどについて発信したい。現代文明・文化を見据えつつ、経済・社会・放送雑感も。
2008年08月15日 19時23分01秒 | 映・文・経・社・放送

2011年8月3日水曜日

『写真家と芸術論』 エルンスト・ハース(Ernst Haas)

エルンスト・ハースは美しいものと遭遇すると感動して涙が出るという。
つまり泣く時は美しいものを見たときなのである。
 彼は普通の人なら見逃すような物に美を見出す。
写真で撮るとヨットの帆はぶれて見えるケースが少なくない。
彼はそのぶれに美しさを見出す。
また街の壁に貼ってある、ポスターが破れて居るのを見て撮る。そこに美を見出すハース。
極めつけは、泥だらけの道に落ちている大きな手袋。
それは泥で薄汚れて居る、ハースはそれにも美を見つける。

 ハースは人が気がつかないところにも美を見出せる天才的な感性の持ち主。もちろん、美しい花を見るとさらに際立って美を見出せるというわけである。

 彼は世界中をカラーで撮ってきた。とりわけ、コダクロームのフィルムを愛した。プリントは染色技術を用いたダイトランスファーという精緻なものを愛した。
このダイトランスファーのプリントでの展覧会が日本で巡回した。1990年代である。

 このダイトランスファーのオリジナルプリント二種(天地創造シリーズと花のシリーズ)が1980年代に日本でも売り出され、かなりの人々が手に入れた。
筆者もその一人である。筆者は天地創造のシリーズを入手。
これは『天地創造』というカラー写真集から10点を選んだものである。
混沌の中から大地や海が現れ、生物や鳥類ほかの動物そして最後にアダムとイブという内容の有名な写真集で、世界中に人々をうならせる出来栄えであった。

 ハースの日本での展覧会では米国のハースを取材したTV番組のビデオが上映された。
そこでハースは美とは人がどう思うかでなく、自分が満足できるかどうかが基本であると述べていた。
賞狙いやコンテストに提出するというのは二の次ぎ・三の次ぎで、自分が納得・満足することが肝要だという。

 満足が行く写真を撮ろうとする姿勢、撮った写真からいいものを選択する審美眼、それが写真の芸術性の支えである。

 余談だがハースは美を求めてインドやヒマラヤほかアジアをさまよい歩いたが
結局アジアにある良いものが日本に取り入れられ、残っていると言う。
 そして日本は残された自然も美しいがゆえにハースは日本を愛して撮影した。
 カラーの魔術師と評されるハース、深い色の世界、日本人と共感できる所以である。

 ハースについて知るためには、まず図書館などで『The Creation 天地創造ーエルンスト・ハース写真集』
(1993年5月 小学館)などを見るのが良い。

 ネットで検索すると以下の通り、
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creation『The Creation 天地創造ーエルンスト・ハース写真集』(1993年5月 小学館)は色彩の魔術師が捉えた美しい地球と生き物 ... このエルンスト・ハースの「ザ・クリエイション」を参考に、日本の天地創造に挑戦しながら写真の整理をしていくつもりです。 ...
www.bunakou.com/creation.htm - 2k - キャッシュ - 関連ページ

あるいは 
2005年01月27日  http://www.edita.jp/shimizu/one/shimizu396719.html
私の好きな写真家/エルンスト・ハース
エルンスト・ハースという写真家がいる。私は彼の写真が好きだ。彼の写真は美しいだけではなく世界がある。動きのあるものはその動きを、人が歩いたあとには歴史を、自然の写真からは人間の存在を感じる。写真は視点の芸術だと彼は言う。彼の写真は彼の目であり、こうあって欲しいという世界を探し続けている。

:映像と文化通信
2008年03月31日 18時42分04秒 映・文・経・社・放送からの転載