2011年8月13日土曜日

『三木淳・デービッド・ダグラス・ダンカン・ピカソ夫妻』

三木淳の訃報はまず奥さんが海外に居るデービッド・ダグラス・ダンカンに知らせた。デービッド・ダグラス・ダンカンはすぐ、筆者が勤めていた写真通信社に知らせてきた。  それで筆者も早く三木淳の逝去を知った。

 大手のA紙の記者にそれを伝えると、写真部の彼はそれをまだ知らなかった。訃報は特ダネでもあるのだ。ハースがNYで亡くなったとき、彼はA紙に報道した。  

 三木淳が日本のカメラ工業の恩人になったきっかけはデービッド・ダグラス・ダンカンが朝鮮戦争の取材にニコンのレンズをつけたカメラを持っていったことからだと前に述べた。  

 筆者が勤めていた写真通信社ではデービッド・ダグラス・ダンカンの写真展『ピカソとジャクリーヌ』を開催、氏とは親しくなっていた。

 デービッド・ダグラス・ダンカンはなかなかの好男子・快男子でピカソとジャクリーヌに愛されていた。 ロバート・キャパ亡き後、パブロ・ピカソ夫妻にこよなく愛されたダンカン、それだけに夫妻の私生活、2人の愛の生活を充分捉えていた。 

 東京で開催された『ピカソとジャクリーヌ』デービッド・ダグラス・ダンカン写真展のオープニングで筆者はデービッド・ダグラス・ダンカンに会った。  

 ジャクリーヌはピカソをあまりに深く愛していた。

 しかし死後、孤独からダンカンを想う気持ちもあったと相違される。

 ピカソの前夫人の子供達との”いざこざ”(筆者の想像)とかダンカンへの想い、複雑な感情がからみあっただろう。 

 ジャクリーヌはしかしあまりにもパブロ・ピカソを尊敬し、愛していた。
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 パブロ・ピカソが亡き後の孤独感、複雑な感情、全てをすっきりと清算したかったのではないかというのが筆者の想像である。 孤独感を逃れようとの自殺。ダンカンは悔いたそうだ。

余談だが、キャパやダンカンほか有名な写真家と交流のあったピカソ。カメラもすきで、撮られるのもきらいではなかった。

 写真も結構数多く遺している。

  (文中敬称略、失礼の段、お許し下さい。)
2008年08月04日 07時50分56秒 | 写真・映像・アート
 記事は過去のものの転載・再録です。

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